最近、「英語が話せるから」「海外と繋がりがあるから」と呼んでもらえる仕事が増えました。具体的には、英語インタビューが含まれる取材やアテンドなどです。
もともと、学生の頃は数学や美術が好きで(この二つの分野はとても近しいものだと思っている)、高校を卒業したら英語は二度と勉強しないだろうし、日本の外にも出ないで過ごすんだろうなと思っていました。
変わるきっかけになったのは、アルバイト。
当時、一番時給の高い仕事が塾講師でした。2500円とかだったと思います。
大学入学前に面接を受けて、数学の講師を希望をしました。でも、「数学はもうたくさん先生がいるから」と、英語に割り振られました。この時、数学講師になっていたら、一生英語には関わらなかったと思います。
中学1年生から3年生まで、全ての学年を担当しました。
板書や採点、テスト作成を通じて、自然と例文を覚えます。よく「英会話は中学英語で全て事足りる」と言われますが、本当だと思います。
大学2年の夏に、ピースボートという旅行プログラムに参加して、3ヶ月かけて北半球一周の旅をしたのですが、この塾講師のバイトのおかげで最低限の英語は話せるようになっていました。
ピースボートに乗船したのも深い意味はなく、子どもの頃から貯めていたお金が200万円くらいあって、「成人したら好きに使っていい」と祖父に言われていたこと、当時私の中にあった選択肢が「バイク購入か世界一周」だった程度です…。でも、海外に対する興味や人との接し方を決定的に変えたのはこのピースボートでの経験でした。
ピースボートの乗船期間はほぼ3ヶ月ですが、ほとんどの時間を海の上で過ごしました。
みんな暇なので、特技を活かして無料の講座を開いたり、参加します。
ある日、「英語を話せるようになりたいから、まりこ教えてよ」と同年代の友達に言われました。板書用のボードを使いたかったので、船内で申請をしました。その申請をすると、船内の講堂やフリースペースを予約でき、船内新聞のタイムテーブルに掲載されます。
乗船直後からその講座は始まって、なんやかんや下船の時まで続きました。「英語を教えて」と言った友達は途中から来なくなり(!)、船内新聞を見たおじいちゃんたちが集まってきました。生徒数は最終的には40名くらいになりました。
英語を教えている間は、とてものんびりとした時間が流れていました。
塾のバイトは、中学生に勉強をやらせて、成績を伸ばさないといけないけど、おじいちゃんおばあちゃんは、勉強したいから自主的にやってきます。でも、すぐ忘れるし、「昼寝してたら昨日行けなかった」とか普通に言ってきます。なので「これ昨日やったけどもう一回やりましょっか」と、何回も何回も繰り返しました。
下船してからは、文通が始まりました。
なんか、生徒の皆さんから手紙がくるので…。勉強続けてるよって連絡が来ると、私も英語勉強しなきゃなという気持ちになります。おじいちゃんたちが頑張ってるなら、私も頑張ろうかな、と。所属していたゼミも英語に関わるものに変更したほどです。手紙を送っていただけるのは普通に嬉しかったし、生徒さんが勉強続けているのに、私が何も勉強しなくて適当に過ごしているのは、違う、と思っていました。
あれから20年の時が経ちましたが、細く長く、英語に関わり続けてきました。
転職活動していたときに、英語でのインタビューがあって、上手く答えられなかったことや、留学を考えて挫折してこと、英語が公用語の企業に転職したこと…色々なことがありました。
なんだかんだ「佐藤さんは英語」というイメージがあったのか、そこをピックしてもらって転職してきました。
オランダ移住してからは、剣道の友達のおかげで聞き取る力や話す力もずいぶん伸びたように思います。英語のメディアを運用したり、インタビューにアサインされるなんて20年前の自分だったら考えられません。ほんの数年前でも、オランダ企業のインタビューをする際に、英語で気の利いた返しのできない自分にがっかりしていました。5年前に、タイのサーキュラーエコノミー企業にインタビューした際は、タイ英語に惨敗。「ただヘラヘラ、ニコニコして終わった」と当時の日記に書かれていました。自分の無能さに絶望したことをよく覚えています。
昨日の取材では、プレゼンテーターが話していることはほぼ理解できて、よくここまできたなぁなんて思いました。そして、すべての始まりを振り返ると、本当に偶然のきっかけだったんですよね。数学講師になっていたら、全然違うキャリアパスになっていたはずです。
自分の意思とは関係なく、誰かから偶然もたらされたものが、なにもかもを変えてしまうことがあるなと思います。意外とそれが自分で選んだものよりも性に合って、長く続くから、人生とはわからないものです。