発信することの意義

戸塚道場の槌田先生がブログを書いていらして、私はそのブログの愛読者なのですが、いつもすごいなぁと思って拝読しています。

自分の考えや気持ちを文章にして、外に向けて発信することは、時にとても勇気のいることで、日本だと特に、ハードルが高いことのように感じます。

でも、私は自分の気持ちを発信することには、大きな意義があると思うんです。

誰かをインスパイアする

本当に自分が大切にしていることを言葉にすれば、きっと誰かをインスパイアします。

似た考えの人の背中を押したり、励みや力になるかもしれない。

読んだ人がたとえ、「いいね」もコメントも何もしなくても、何回も何回も文章を読んで、その人なりに考えを練っているかもしれない。メッセージをしようか、コメントしようか悩んで「いや、わざわざコメントするほどのことでもないかも…」と言葉を心にしまい、数年後に「そういえば、あの時さ…」と話しかけてくれるかもしれない。それくらい、心に残るかもしれない。

実際私も、何か記事を書いてすぐではなく、数年後に長い長いダイレクトメッセージを送っていただいたことがあります。また、知人は何気なくポストしたFacebookの投稿が、数年後に大きな仕事につながりました。

いますぐの行動に繋がらなくても、マインドに残るから、本人も気づかないうちに何かが変化したり、数年後につながっていくかもしれない。発信することの意義の一つは、これかなぁと私は思ってます。

だから、何か自分の考えを文章にするときは、「いつか届く」と心の中で唱えています。

他にも、

  1. 会話だと流れてしまうことが、文章だと形に残る
  2. 整形されて形に残ったからこそ、それをベースに議論できる
  3. 言葉によって、考えが保存される
  4. その時代の考えが、記録される

などもあるかなぁと思います。

「4」の記録に関しては、コロナの時期に特に重要性を感じていました。

わたしたちにできること』は、1回目のロックダウン直後に書きました。『私個人の視点でのオランダのコロナの状況』は、2回目のロックダウン後の状況ですね。久しぶりに読んだんですけど、書いた本人ですら「こんな状況だったんだ」とちょっとびっくりしました(笑)

人の価値観は、螺旋のように上がったり下がったりを繰り返しながら進化してくものではないでしょうか。昔OKだったことがいまの時代は完全NGになったり、数年前はあり得なかったことがいつの間にか「当たり前」になっている。でも歴史を見てみると、その時代・国・コミュニティの空気や理由が確かにあって、一概に「良い」「悪い」と決めつけられることではないように思うんですね。

だから、その時その時の自分の気持ちや考えをちゃんと言葉にして、誰かと共有し、磨いていくことが大切なのではないかなと思います。誰かを傷つけることないよう、配慮しながら。

ブログを書くことについて「自己満でしょ」と槌田先生が言われたらしいのですが、私はそれに異を唱えたいw もちろん、書く本人の考えを整理したり、「誰かに伝えたい」という欲求を叶えたり、何より、文章を書くことは癒しになる。だから、ある意味では自己満なんですけどね。

それらを鑑みたとしても、基本的には発信には大きな意味があって、勇気ある、理知的な行動ではないかなーなんて思います。

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アイキャッチ画像は、UnsplashNick Morrisonが撮影した写真を使用しました。Thanks!

2 件のコメント

  • いつも取りあげていただきありがとうございます。昔言われた事があるのが、「ちょっと先生のブログ、キレイ事過ぎて信ぴょう性に欠ける」みたいな事を言われた記憶がありますww その時は、ブログを辞めてしまおうと思ったのですが、良く考えたら、そんな事を平気で言う人のために辞めてしまうのは何かおかしい・・・と思ったのですねww
    結局、見てる人がどう思うかが気になり、批判が怖いというエキスが発信には付きまといます。でも、それってコントロール出来ないんですよね・・・

    佐藤さんのブログを読んで、私も確かに・・・と思いました。文字で残って行くという事は昔こう考えていたんだという事がわかりますよね・・・・「こんな言い方したらダメでしょ?」みたいな事を過去のブログに見つけたら成長したなと少し思ったり・・・ww

    発信はこちらの自由・・・それに共感するも批判するもそれは相手の自由・・・批判されたら、「あなたはそう思うんですね」というだけの話・・・

    「何故そんな風な感想を持つの?」という言葉の裏には、相手に共感を期待するからだと思います。
    この期待が実はとてもくせ者であると、最近つくづく思います。

    • コメントありがとうございます! 「綺麗事すぎて信憑性に欠ける」…ちょっと意地悪が混ざっている言葉なのかな。顔見知りからの意地悪は、心に刺さりますよね、、
      メディアに記事を寄稿したときは、Yahoo!に転載されて数百件コメントくることもあるのですが、
      ・ただの意地悪
      ・ちゃんと読んでいないコメント
      は、読んでるこっちもわかるので、ほとんど気にしてませんw たとえ反対意見だったとしても、しっかり読んでくれた人は、どっしりしたコメントを書いてくれる気がします。自分と違う視点なので勉強になります。
      反対意見も含めて、考えをさらに磨けることが私にとっては発信することで得られるものの一つかなぁなんて思います。反対意見や批判の中にはちょっときつい言葉が混ざっていることもあるのですが、槌田先生がおっしゃる通り、何を思うか、言うかは相手の自由だと思います。私はなんでそう思ったのか聞きたいので、メッセージして深く聞いてしまう時もあります! ただの意地悪だった場合(この言い方が適切かわかりませんが)は、なんか、しどろもどろというか、誤魔化された意見が送られてくることが多いように感じます。その人なりにしっかり考えがある場合は、批判的な意見でも割と腹落ちして、新しい学びのきっかけ、違う視点の情報が手に入るので、すごく貴重だ!と思うこともあります。

      共感してほしいという気持ちは、確かにくせものかもしれません。共感してもらえたら嬉しいけど、私なんかに共感してもらってすいませんて思うこともあります😂 それよりも、考えがブラッシュアップされていって、自分が所属しているコミュニティや、社会が良い場所になっていったら良いなーって思ってます!

      また、文章を書き続けると絶対に上達するので、「こんな書き方してたんだ」とか「これ今は絶対にやらない」と反省することも多々ありますw

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    横浜出身、オランダ在住のフリーライター&Webディレクター。ジャンルを問わないSEOライティングが得意です。ディレクションはLP・採用サイト・企業サイト・オウンドメディア、何でもやります。お仕事のご依頼は[marikoアット1design.jp]もしくはTwitterへ。[ID mariko_cabin442] 最近、剣道五段に受かりました。旅行と読書と寝ることと、漫画が好きです。細かいことを気にしない性格です。